■雲南 瀘沽湖 と新平県戛洒鎮(5回目)
その二







5日目 瀘沽湖滞在3日目 獅子山祭り




本日は瀘沽湖獅子山祭り(轉山節)で午前9時から午後2時頃までという事で民族園で朝食、昼食用にマントウとじゃがいものふかしたものを持って出かける事にしました。包車で午前8時すぎに出発し昨日 下見した悪路を獅子山祭りの会場まで進みます。途中で会場近くに住む摩梭人の男性を乗せて進むのですがやはり昨日のぬかるみまでくると小型のシャレードでは進めません。しかし会場に向かう他の車はどんどんそのぬかるみを越えて前方へ進んでいくのですが仕方がありません。こちらはそこで車を降りて歩いて会場まで行きます。
会場へ向かう摩梭人は歩いていたり、馬に乗ったしています。手には竹にラマ教の経文を刷った紙や布がついています。その人達と共に会場まで50分ほど歩いて会場に到着しました。既に多くの人が獅子山の麓の傾斜地に集まっていて観光客の車も2,30台ほどが停まっていました。その傾斜地の一番上にラマ教の小さなお寺があり、摩梭人の多くは先ずそこでお祈りをしてから下に向かうようです。

私たちも先ず一番上のラマ教寺院に向かいます。寺院の周囲にはカラフルな紙や布で経文が刷られたものが寺院の建物の廻りに張り付けてありました。永寧のラマ教寺院もそうですが線香の代わりに松の葉を燃やしていてその白い煙が周囲に漂っています。寺院の廻りにはその松の葉を燃やす?所が何カ所かあり、そこで摩梭人が地面に頭をつけて祈っています。又ラマ教の僧が大きなラッパ?を吹いています。ブォーーーーッと大きな音が出ます。

このお祭りには大きな放送用のビデオカメラが1台入っていて撮影していました。どんな関係なのでしょうか? 更にもう1台、民生用のキャノンのXL1のフル装備仕様でした。

ここで緑の摩梭人の衣服を着ていた女性がいましたので撮影させてもらいましたら民族村から戻った方で彼女の方から私を知っているとの事でした。あせっていたせいかこちらはよく確認していませんでした。この会場ではその後 民族村から帰ってきた女性と再開し、里格島の女性と共にお茶やお菓子などをいただきました。やはり民族村から帰ってきた女性は化粧の仕方が違うせいか地元の女性とどことなく違います。

傾斜地の下の方にはテントが貼られていてラマ教の僧が20人ほどいて丁度 ご飯の時間でした。そのテントの隣で長大なラッパ?が吹かれていてビデオカメラが数台撮影していました。この傾斜地には近隣から集まった摩梭人が鍋釜、燃料、食材を持ってきていてグループで楽しんでいるようです。獅子山節は轉山節といい山を廻るという意味だと思います。ですから何か特徴的な大きな催事というより摩梭人が集まって楽しむお祭りなのでしょう。「西南民族文化節」という本には轉山節は「歌舞、結交、阿夏(情人)」と書かれています。

摩梭人のグループの間を歩いていると日本語が何度も聞こえてきます。若い人や年配の人の声が聞こえ10人ほどの日本人と出会いました。若い人は個人で年配の人はパックツアーでいらしていたようです。このパックツアーの中の方で熊さんに西遊旅行で5年前にお世話になった方がいらして久しぶりの再開だったようです。

午後2時頃になると摩梭人の民族衣装を着た女性が集まってきて踊りが始まりました。どうも自由発想的に始まったのではなくキャノンのXL1で撮影するグループがセッテングしたもののようでした。(全く同じ民族衣装ですからどごかの単位が関係しているのでしょう)20分ほどの踊りの後 やっと自由参加で踊りが始まりました。民族衣装を着た一人づつの女性や、民族村から戻ってきた普通の洋服を着た女性達も参加して踊りの輪に加わります。




広い草地で明るい昼間に見る摩梭人の踊りは初めてです。
3時過ぎに会場を後にして民族園へ戻りました。帰りに車中でこのまま麗江に帰っても良いという運転手の了解が得られましたので急遽、支度をして麗江に向かう事になりました。運転手夫妻も瀘沽湖は飽きてしまったとの事でした。
午後4時頃瀘沽湖を出発、車は猛烈な勢いで進みます。本当に恐い!。寧ランを過ぎて所で対向車のトラックが大きな荷物を積んだままカーブを曲がりきれず横転してしまいました。(こちらの車とは関係が無い横転です)横転した車から誰も出てこないので駆け寄ってみましたら中から2名が出てきて黙って作業を始めました。積んでいた荷物は谷の方へ落ちています。怪我もしていないようでしたのでこちらはそのまま後にしました。
なんだか恐ろしさで運転手もいくらかは多少スピードを控えて走っています。

それでもかなりのスピードで進み午後6時頃、戦河と清水河の途中に来ましたら、大形トラックがぬかるみにはまって身動きがとれずにいて、道路をふさいでいました。近隣から彝族の人々がやってきて見守っています。暫くすると彝族の人々が近所から石、材木を集めてきて大形トラックの隣に臨時の迂回道路を作り始めました。 約1時間半なんとか形が出来てきて、先ず4輪ジープが通過します。が通過した途端 彝族の人々に停められいくばくかが請求されていました。
その次が寧ランへいくバスです。これもやっと通過して40元を支払います。
私たちの小型シャレードは車高が低いのでかなり平坦でないと通過出来ません。私たちの運転手が仮設道路で小さな石を拾っては石の間に詰めています。やっと午後8時頃 なんとか通過出来ました。18元なり運転手負担。

こういった道路近隣の人々の道路工事による臨時収入は参加人数、通過台数を計算すると一人当たりは何十元という程度だと思いますが、日本よりは対応が早いのではないでしょうか?

遅れた行程を取り戻すつもりなのか夜の悪路をやはりかなりスピードで進んで、午後11時永勝へ到着、ここで夕食です。その後お腹が一杯だったせいか居眠りをしていましたら午前1時 麗江賓館に到着、すぐ寝てしまいました。







6日目 麗江




眠い目をこすりながら9時頃 起床。麗江賓館前の米線屋に出かけたところ、麗江賓館の庭に昨日までお世話になったタクシーがやってきて、運転手の奥さんが 私が忘れたビデオの一脚をわざわざ届けてくれたのでした。感謝!
麗江のタクシーは親切です

ついでではあるのですがそのタクシーで昆明行きの高速バスの站へ明日のバスチケットを購入する事にしました。雪山中路にある麗江高快汽車客運站です。このバス駅からは昆明の西公共汽車駅と下関に向けての高速バスの始発駅です。明日の1番、午前8時のバスを2枚購入しました。そこから四方街まで乗せてもらいしまた。

朝食は四方街です。偶然入ったお店はかなり沢山の座席があり、奥にはステージがあります。夕食はここでご飯を食べながら納西族の出し物があるそうですが、今日は予約で一杯ですが2人分の席は用意しておくという事でした。

四方街の広場へ。熊さんの故郷の女性が苗族のお土産物店を開いているという事で行って見る事になりました。その女性は70才過ぎの女性でお店の場所は広場から萬古楼へ上がる小道の入口にあります。ここには数軒の苗族のお土産物屋がありました。この女性の故郷の家は熊さんの故郷の家から20メートルぐらいしか離れていないのだそうで、かなり故郷の話をされていました。私はここで苗族の刺繍のお土産を購入、その後 私だけ沙過飯を食べに行きました。お土産物屋からVCD、カセットテープのお土産屋を物色しながら麗江賓館へ。

この苗族のお土産物屋の近くに「四方客桟」がありました。外国人宿泊可で室内も見せていただきましたがなかなか綺麗で70元/房です。

麗江賓館へ戻るとフロントの女性が受け付け業務のパソコンのケースを開けて何やらごそごそやっています。聞いて見ると2台のパソコンの内1台のパソコンのフロッピーディスクドライブが壊れてしまって、毎日残った1台のフロッピーディスクドライブを交換しながらそのフロッピーディスクドライブでDOSモードのウィルスチェックプログラムを走らせているのだそうです。パソコン内部のフラットケーブルを毎日抜き差ししているとその内に接触不良を起こすと思うのですが・・・・・ FDDぐらい購入すれば良いのにと思うのですがこれも修理やメンテナンスを軽視するのが中国人の平均的姿なのでしょう。

その女性の話では近所に電脳ショップがあるとの事で連れて行ってくれるというので一緒に出かけました。このお店は電脳だけでなくデジタルカメラやコピー機などもありました。軟件も100本ぐらいありました。ここで今まで疑問に思っていた電脳ショップで売られているWINDOWS98マシンに正規のWINDOWS98のCD-ROMが添付されているかしつこく聞いてみましたら、きちんと付属品の中に入っているのを見せていただきました。

このお店で 沖浪Linux3.2と幸福Linuxを購入、どちらも2本で86元でした。そして中文のhomepage builder2001 が135元ほどで売られていましたが日本の1/10以下の価格で驚きです。中国のパソコンのソフトウエアの96%がコピーという事で こういった相当の低価格でないと正常なマーケットが成立しないのでしょう。そのせいかWINDOWS98の正規のパッケージ商品はほとんど売られていません。

夜は朝食のお店へ行きました。約束どおり2人分の小さい席が用意されていて夕飯を食べながらステージを見る事にしました。8時頃やっとステージが始まったのですがほとんどの人がステージを見ていず、話し声を満ちています。あれではステージの上の人はかわいそうです。あまりのうるささに私もビデオの撮影を諦め麗江賓館に戻りました。

麗江の納西族のステージは大研納西古楽会と東巴宮があるのですが、大研納西古楽会の場所が変わり、東巴宮の前の道路の対面に移動していました。







7日目 麗江から昆明へ




朝7時頃 目覚め、米線の朝食、タクシーで高速バス駅へ。8時に下関行きと共に昆明行きの出発です。出発後すぐに民主路の麗江客運服務中心站に寄りお客さんを乗せます。8時20分出発、一路バスは大理に向かいます。鶴慶の麗江空港を過ぎてバスは白族の農村地帯を過ぎて、山間地の人の少ない地域を登ったり下がったりして10時過ぎに大理古城脇のガソリンスタンドで休憩

下関を過ぎて12時少し前に昼食のサービスエリアに入ります。ここで昼食が出ます。なかなかの量と味でした。昆明に近づくとバスのトイレが壊れました。午後5時少し前に昆明のバス西站へ到着。

そのまま茶花賓館へ。120元、鍵の押金50元。熊さんが貴州へ帰る為の火車のチケットを受け取りに昆明のCITSへ。その後 昆明の南窯バス站で明日の新平行きのチケットを購入。夕食はいつもの北京ダックの全聚徳へ。(園通北路)熊さんは北京ダックがお気に入りのようでした。







8日目 昆明から戛洒へ




瀘沽湖に同行してもらった貴州の熊さんとも今日で別れます。彼は瀘沽湖の俗化に鋭い批判をしていました。CITSのガイドが旅行者以上に俗化に反対するのは初めての経験です。

茶花賓館で彼と別れ、南窯バスターミナルへ。去年の11月にここの時刻表を調べたのですが今回も再度 ビデオカメラで全時刻を撮影しました。
昨日購入した新平行きのチケットは9:30です。そのマイクロバスに乗って出発を待っているのですが出発時間になっても出発しません。車掌がやってこないようで結局、他の人が代わって10:20にやっと出発です。

マイクロバスは昆玉高速を南下し正午前に玉渓市に到着、昼休みの時間をとるのかと思ったのですが出発時間が遅かったせいか、弁当屋に案内され弁当3元を購入し、すぐに出発です。玉渓市から元江の玉元高速公路はそのほとんどが舗装されていましたが、まだ通行は出来ないようでした。2時間で西双版納と新平との分岐点、大開門に到着、ここから新平に向かいます。ここも全て新しい道路が建設中でしたが、なかなか工事が進捗せずいたのですが今回は行程の1/3ぐらいを工事中の新道をマイクロバスが走っていきます。まだ舗装はされていませんでしたが少しづつは進んでいるようです。

マイクロバスは午後3時半少し前に新平のバス站に到着、今まで新平のバス站は3つに別れていたのですが現在は1ケ所に集められて便利になっていました。乗ってきたバスの運転手が戛洒行きを知って私を戛洒行きの3時半のバスまで連れていってくれました。感謝

戛洒まで2時間半、乗ったマイクロバスはかなり年代物でガタガタと揺れながら戛洒へ向かいます。雨期のこの時期でしたが天気も良く元江の橋を越え、腰街鎮と進みます。腰街鎮から先は砂利道で去年の9月は雨期の雨の為、道路が流され戛洒が陸の孤島となってしまいましたが、今年は砂利道の片側に側溝の工事が進められていて雨による被害は全く発生していませんでした。これで雨期も安心して戛洒にやってこられます。

この時期、戛洒周辺の水田は青々とした稲穂が見られ、一面の緑の海です。私は外国人のせいか、マイクロバスの一番先頭に乗せられ絶好の位置からビデオカメラで戛洒の水田を撮影する事が出来ました。この時期の緑の戛洒が一番良いと思います。

戛洒の運政招待所の前にバスが停まると1階にいる3月に彼の実家でお世話になった青年がいます。彼もバスの中の私に気がつき出迎えてくれました。
午後6時、運政招待所へ。早速 荷物を整理してからT1さんのお宅へ。現在彼女は招待所を辞め自宅にいるとの事でした。
ここから5日ほど戛洒の日々が始まります。この期間、日記を付けていませんのでどうも記憶があいまいでほとんど覚えていません。私も戛洒の時間になってしまい日本にいる時の何倍もの時間があっと言う間に過ぎていきます。何日にどこでご飯を食べた。どこへ行った もう夢のような気分です。

運政招待所は半分ぐらいの服務員が入れ替わっていました。公安の派出所には住宿登記をしていませんので必ず行かないといけませんが明日へ。
いつも食事をしていた宏福飯店は経営者が入れ替わったらしく、あまり綺麗でなく残念ながら利用できません。

戛洒の日々が始まります。





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