■雲南 麗江 と 新平県戛洒鎮(5回目)
その三







9日目 戛洒滞在1日目




今回の戛洒は新平県城での時間がありませんでしたのでまだ住宿登記が済んでいません。早速 戛洒の派出所へ、使い捨てカメラのお土産を持って向かいました。今回もいつもの所長がいて住宿登記が済んでいない事を告げたのですが 結局何も書かずに帰る日の確認があって終わってしまいました。

その後 T1さんの家へ。ここでT2さんのお父さんが4月頃病気で亡くなったとの事、ここ戛洒では人民病院はありますがきちんとした医療が受けられなかったのではと思いますが詳細は不明です。まだお父さんは40才台で私とそれほど代わりません。日本では40才台で亡くなるのは珍しい事ですので中国の医療水準は?

次に招待所の楊経理の奥さんの妹さんがやっている小飯店によって3月の時に撮影した写真を持っていきました。ここの女の子が丁度小学校へ上がる頃の子でとても可愛くいつも写真を撮っては持ってきます。今回は近くのDPE店で4つ切り\100というサービスかあったので4つ切りを30枚ほど持参して配りました。

更に街で1軒だけある写真屋さんに、ここも来る度に寄って日本と中国の写真環境の違いを出鱈目中国語でやりとりをしています。

招待所の前の飯店で昼食、米線
午後からは招待所で休憩、夕食はT1さん,T2さん,T3さんの4人で製紙工場が経営している南恩大酒店で夕食です。戛洒の紙工場で働くT3さんは来年、漢族の青年と結婚されるそうです。夕食後4人全員でT3さんの働く製紙工場を勝手に見学しました。サトウキビの茎で作る紙と聞いていたのでそれほど上質の紙ではないだろうと思っていたのですが出来上がった紙を拾ってきてみるとトレーシングペーパーの紙に似ていてかなり予想より良いものでした。紙の名前は「糖紙」という名前です。工場の中は大きな機械が騒音を立てていて この騒音で働いている人はかなり精神的苦痛があると思いました。







10日目 戛洒滞在2日目




この日は小学校と中学校へ出かけてみました。小学校の方はほとんど人影が無かったのですが中学校は30日から登校という事で先生方が大勢出ていました。校長室へ案内され多少質問してみましたが、何を警戒しているか、生徒の数も教えてくれません。それほど秘密にしないといけないのでしょうか? 言葉の問題があるので本当のところは判りません。

昼は昨日と同じ場所で昼食です。ビール、骨付き空揚げ、炒飯という必ず太るのメニューです。午後は何をしていたのか不明です。多分 街をブラブラしていたのでしょう。
夕食はT1さんの家に呼ばれているのですが夕方T2さんの家に行っておりました。T2さんの家には亡くなったお父さんの為の祭壇のようなものがしつられてあってT2さんのお母さんがタイ語でお経を読んでいました。
私もお母さんの隣の正座して座っていたのですがそのお母さんがあっちへ行けと手振りをします。T2さんは有り難うと言ってくれるのですが なかなか想いは伝わりにくいものです。

夕刻にはT1さんの家に呼ばれてT2さんと共に家族で夕食でした。
さすがにこの夕飯は近所の人が入ってこないようにか、家の木のドアを閉めてからでした。普段はこのドアが半開きになっている事が多く顔見知りの近所の人が挨拶も無く入ってきます。






11日目 戛洒滞在3日目




3月に隣の漠沙へ行った時に知り合った水イ泰族の女性の家へ軽ワゴンを頼んで行って見る事にしました。同行はT1さん、T2さんです。戛洒で包車を探してもらって雨の中を魚塘に向かいます。家のある場所は道路脇の里程票を目安にしていたのですが側溝の工事の為に里程票がどこかへ行ってしまっていました。それでもやっと彼女の家の前に到着し、みんなで家へ歩いて行こうとすると道路脇に当人が立っていました。!

彼女の家に行きますと誰も家にはいません。私が帰国後 送った写真を見せてもらった所、送った写真は書留だったせいかきちんと届いていました。しかし封筒に貼ってあった綺麗な切手は剥がしてありました。やはり書留で正解でした。

この日、道路にいた女性は2人でもう一人の方の自宅に行って見る事になりました。写真を送った女性の家のすぐ隣の集落の方で、数十軒の家が4列ぐらいになって並んでいます。牛の家もあり村落の入口の道路脇に小さな牛小屋が並んでいます。多分 この村落は何かの都合で計画的に作られたものなのでしょう。あまりにも画一的で日本のアパートみたいです。このお宅でお昼に呼ばれたのですが迷惑を掛けてもいけませんのでお昼ぐらいに訪問先を後にしました。

腰街鎮まで戻り、ここで昼食です。外国人と地元の女性ですので目立つのは良くないのでしょう。一番外れの食堂です。

夕食はT2さんの家にT1さん、T3さんと共に集まりました。やはり今年は一人少ないのでなんとなく寂しいものです。
ここの家ではアヒルを飼っているのですが餌はモミ殻のついたままの米です。やはり雲南は豊です。







12日目 戛洒滞在4日目




戛洒では毎日 野菜などを売っている市が立っていますので、戛洒滞在最後の日ですので出かけてみました。ここはいつも 同じようで野菜、肉類などが朝、明るくなる頃から売られています。今夜もT3さんの家に夕食を呼ばれていますので、もやしと牛肉を買ってT3さんの家に届けました。
その後 T1さんの家の前にいましたら、近所の女性達が大きな茶碗にご飯とおかずをそれに乗せて食べていました。その内におかずだけ無くなったのだ勝手にT1さんの家に入り台所からおかずを勝手に持ってきて食べていました。そういう近所づきあいです。
玉渓から戛洒へ向かうバスの終着地は大紅山という場所ですが以前から場所が不明でした。雲南省の一般の地図に出ていないのですがどうも鉱山があってこの大紅山へ働きに行く人とバスで一緒になります。今回も昆明から新平までのバスで一緒でした。戛洒の小さな本屋でこの場所を教えてもらいやっと場所がわかりました。戛洒と老工との中間にある鉱山という事で車で1時間ぐらいの距離でした。
公共汽車の站でも地名が判らないケースがあるわけで中国旅行の大きな障害です。お祭り場所などは村の名前なども表記されていないケースがほとんどの上に もし書いてあっても鎮や郷までは外国人が見る事が出来る地図をみればなんとかわかりますが**市**村などと書いてあればもう お手上げです。日本のように家の形や世帯主まで書かれている動態図鑑が売られている国は世界でも希でしょう。

大紅山には戛洒から軽ワゴンで出かけました。丁度乗合の軽ワゴンがいる場所に公安がいて一言「大紅山に行く」といいましたら、包車だったのですが乗合になり助かりました。10倍の料金差がありました。
その軽ワゴンには大紅山へ行く人が数人乗り、元江の支流の河に沿って進みます。1時間ほど山間いを進むと田舎にはびっくりするほどの団地か見えてきました。丁度昼時だったせいか団地の建物の前で昼ご飯を商う、屋台が沢山出ていました。私もその中の1ケ所で昼食です。
多分 何千人も働いているのでしょう。いろいろな目的の建物が見えますが肝心の鉱山の場所がわかりませんが、あまりうろうろするのも問題ですので2時間ほどで戻る事にしました。帰りの軽ワゴンを探しましたら、昨日 魚塘に行った軽ワゴンと運転手に再開しましたのでこれに乗って戛洒まで帰りました。

午後6時 T3さんの家で夕食、暫くするとT3さんの婚約者も来宅です。こちらはいる場所がなんとなく無いのでT1さん宅へ移動です。



◎写真集「雲南民族服飾」の御紹介





13日目 戛洒から昆明へ




この日は昆明に向けて朝から移動する予定でしたが夕方出発に変更しました。出発は午後5時半のバスという事にしました。この日はT1さんもT2さんも午後まで用事があるとの事です。この日は1と6の付く日ですから戛洒の市の日です。近隣からいろいろな人が集まって市場を埋めています。T1さんの家ではこの日は「タンク」と呼ばれる牛の内臓料理の小飯店を一家で出します。T1さんの家ではこの日は朝4時頃から用意をしてタンク専門の小飯店街に向かいます。
このお店は午後3時すぎまでお客さんが絶えません。

この日、T2さんの方もお父さんが亡くられてから何日目かで、お墓で催事があるという事で、耕運機で親戚の人と出かけていました。午後4時頃やっと戻ってきました。

午後5時半バスで新平へ、戛洒は天気も良かったのですが新平に近づくに従って天候が急変し新平到着時には大雨でした。新しいバス站から(シ匯)濱源酒店まで数百メートルは大雨で道路が川のようになっています。ずぶ濡れになりながらホテルまでやっと到着です。このホテルは1998年9月にも一度泊まっています。チェックインを済ませ暫くするとやっと雨も小降りになり道路が普通の道路に戻りました。(80元/房)ホテル近くの小飯店で夕食







14日目 昆明へ




(シ匯)濱源酒店を6時に退房、バス站へ。6:30のバスで昆明へ向かいます。ところがバスのチケットが購入出来ませんでした。仕方がありませんでチケット無しでバスに乗り込んだのですが運転手がチケットが無ければ駄目という事で降ろされてしまいました。仕方がありませんでしたので6:50発の玉渓行きに乗り込みました。こちらはチケットがありました。定刻出発で予定通り、午前10:40に玉渓に到着、昼食?を済ませ玉渓汽車中心站へ。ここでいつもの高速バスで昆明へ。

昆明では久しぶりに西山竜門に出かけてみました。タクシーで西山へ55+5元、龍門は歩いて何度か行きましたので今回はリフトで西山の上を往復してみました。15+15元、1時間ほどで往復します。帰りは小公共汽車で六路車站(公共汽車西中心站)まで(6元)そこからタクシーで茶花賓館へ。
六路車站(公共汽車西中心站)は路線バスの站で、昆明汽車西客運站は長途バスの站で場所も異なりますので注意

茶花賓館の前には実験飯店があり、ここで夕食です。過橋米線を頼んでみましたらスープが煮たっていません。(20元)それでも何種類かの具を小姐が入れてしまいます。なんだか心配ですが思い切って食べてみましたが次の日も大丈夫でした。スープの方もなかなか良い味で昆明で食べる過橋米線としては一番でした。それでも蒙自にはかないません






15日目 日本へ




日本へのJASは午後3時10発ですので1時半に空港へ行けば間に合いますので午前中は空いています。
茶花賓館を7:30に退房です。ここは鍵の押金が50元で鍵を返すと帰ってきますが、この時は何故かホテル側が100元札を出してきて私がオツリの50元を支払いました。何だか変に思ったのですがそのまま公共汽車で火車站まで向かいました。そこから44番の小公共汽車で民族村へ。民族村前で朝食、荷物を民族村に預けて、8:50の開園前の踊りを待ちました。

この朝の踊りもこれで3回目ですが何度見ても心踊るものがあります。
その後 入村料を払ってチケットを貰おうとすると渡した100元札がおかしいと言われ受け取ってくれません。茶花賓館で受け取ったものです。仕方がありませんので別のR.M.Bで支払い入村。そして 摩梭之家へ。やはり聞いていた通り今まで顔馴染みだった小姐が少なくなって初めての小姐が増えていました。
11時に民族村からいつもの愛イ尼山庄へ。ここで昼食。その後タクシーで空港まで。
空港で少しお土産を買おうと思って茶花賓館で受け取った100元札を出しますと機械に掛けています。2台も機械に掛けていますがやはり偽札のようです。茶花賓館で故意に偽札を出したのように思えてなりません。帰国の最後にとんだケチがついたものです。
今回は10元札2枚も偽札でした。10元札ですと笑い話ですが100元札はちょっときついものがあります。戛洒の小姐の工資は200元/月ぐらいなので死活問題でしょう。

それでも無事 帰国しました。今回は身体の方は元気なのですが精神的にいろいろありました。特に対中国人との接触が異常に多かったようで まいっています。
パック旅行では地元の方との接触がほとんど無く物足りないのですが今回は逆でした。


今回は撮影したビデオテープが9時間、銀塩写真が6本、デジカメが600枚(その内100枚はインスタント写真で旅行先で差し上げました)






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