■貴州苗族の村と雲南戛洒へ その一





■貴州 苗族の村へ




 1998年3月、1998年11月、1999年12月、そして2000年5月に貴州省を訪問し苗族の人々と出会いました。苗族の人々のに会うと何故か心休まるものを感じます。今回は初めて春節に凱里に向かう事になりました。今回も凱里の黔東南CITSのガイドの熊さんに行程をお願いしてあります。どんな旅行になるのでしょう。また貴州から昆明に戻ってから8度目の戛洒の予定です。

今回もいつものように日本から昆明往復の飛行機を利用し、昆明から貴州は貴昆鉄道を利用しました。


今回の所持品はミノルタの旧モデルになってしまって中古価格が下がって購入したS807siと、ビデオカメラはキャノンのXV1です。 ミノルタのカメラは全て暗いときの合焦性能が低く、中国での撮影には不向きである事がいろいろと調べて判明しました。ミノルタのAF一眼レフの全ての傾向です。



旅の主な日程




 1日目

羽田発−関空経由昆明行き 硬臥で凱里へ

 2日目

凱里で雷山県白岩村 凱里泊

 3日目

凱里CITSの車で台江から施洞へ、平兆泊

 4日目

平兆から温泉へ、温泉泊

 5日目

温泉から凱里へ、凱里泊

 6日目

凱里から雷山県鳥東村、翁義の芦笙会、凱里泊

 7日目

凱里市内散策、鴨塘の芦笙会、硬臥で昆明へ

 8日目

昆明より新平県戛洒鎮へ 戛洒泊

 9日目

戛洒鎮 戛洒泊

10日目

戛洒鎮、戛洒泊

11日目

戛洒より昆明へ 昆明泊

12日目

昆明より午後日本へ









1日目 昆明、凱里へ



あいも変わらず今回も、日本エアシステムで羽田−関空−昆明線です。
関西空港の待合い室はチャイナドレスを着た女性が搭乗アナウンスをしていました。目的地が昆明という非漢族の地方ではあるのですが嬉しいものです。
JASの昆明到着はこの頃、ジェット気流が強いのか午後2時半頃の到着です。機内はパック旅行のお客さんが多く2/3程度の搭乗率でした。

今回は空港内の両替所が開いていましたので$400ほど両替をしました。昆明の旅行社の人に電話して昆明駅で硬臥のチケットを受け取る約束をしました。その後 空港の敷地から出てタクシーに乗り昆明駅へ10元

昆明駅では旅行社の人が当初 金花?飯店で待っているという事だったのですが私がわかりませんので駅前の公用電話の前で待っていると若い旅行社の人がやってきてなんとか切符を受け取る事が出来ました。列車はK80で16時28分発という事が判りました。
時間もそれほど余裕がありませんでしたのですぐに旅行社の人と別れて站構内へ、K80の待合い室へ行きますとすぐに列車の方へ案内されました。

いつもでしたら列車に乗る時などはかなりの雑踏の中を進むのが普通ですがこの時は ほとんどお客さんがいません。硬臥の車内に入りましたらもっとびっくりで2,3人しかお客さんがいません。間違って乗ってしまったのかと思いましたが、春節の初日で間違ってはいませんでした。結局出発した時は1両で10人ほどのお客さんが乗っていました。

隣のベットには父子連れが乗っていて昆明で自動車の営業をしている人でした。ここでもいつものように「メシメシ」「バカヤロ」の言葉が出てきてまいりました。この父親、暇な時には2才ぐらいの子供に「バカヤロ」と教えていました。悪い人ではなさそうですが・・・・・
列車内は異様に熱かったので着ているものをかなり脱ぎ8時頃には寝てしまいました。





2日目 凱里、白岩村へ





貴陽には、真っ暗な朝4時頃に到着し10分ほど停車し凱里に向かいます。
貴陽から凱里までは今まで単線だったのですが複線化の工事が進んでいました。7時半定刻に凱里に到着。まだ薄暗かったのですが黔東南CITSの熊さんと運転手さんが待っていてくれました。薄暗い中を凱里賓館へ

凱里賓館には西遊旅行のツアーの人々がいて前日、南花という所で歓迎式と昼食だったとと聞きました。
凱里賓館で簡単な朝食を取ってから雷山県の「エゥディオン村」へ向かう事にしました。この村は1月2日にNHKで「天上の村に正月がやってきた」という番組で紹介されましたので、出ていた少女「ランイ」ちゃんに合いたいと思い熊さんに聞いて見たのですが熊さんもその名前では判らないとの事で、とりあえず去年訪れたTBSの「世界うるるん滞在記」で紹介された白岩村の金さん宅へ向かう事にしました。

車は一端 凱里から三(木果)樹という場所にある運転手の周さんの経営する飯店に寄りました。この周さんトン族で奥さんが漢族だそうです。ここから雷山へ。雷山はすでに何度も往復していますので車内で熊さんと積もる話がありましたのでいつのまにか雷山に到着しました。雷山に来てみますとうっすらと雪が積もっていました。

雷山県から前回訪れた白岩村までは30分もあれば到着するのですが雪のせいで道路がぬかるんでいます。白岩村は少し白化粧をして去年と同じように待っていてくれました。うるるん滞在記に感激して去年の5月に訪れたのですが、今回も金さんは暖かく迎えてくれました。1階の居間に入りますとテレビとVCDのプレーヤーがありました。娘さん二人はいなかったのですがお父さん、お母さん、お婆さん、長男とその若いお嫁さんがいました。この長男は21才、お嫁さんは17才、去年の7月に下の村から嫁いできたのだそうで、歳から言って高校生です。

私の事も熊さんの事も覚えていてくれました。早速、「エゥディオン村」について聞いてみましたら、地図にも載っている鳥東村の事だそうでそのランイちゃんの事は長男が知っている。しかもランイチャンのお母さんの家はこの家の隣が実家だとか・・・・ なんだかとても狭い世界のようです。車で30分という事でここの長男の金武さんに案内してもらって鳥東村へ行くことにしました。その前におよばれでここで昼食をご馳走になりました。ついでに庭先で金さんの家族の写真撮影です。うるるん滞在記のスタッフに写真を送ってもらえなかったそうで帰国してから撮った写真は全て送る約束をしました。(すでに書留で送りました)

金さん宅の武さんを乗せてサンタナは鳥東村へ向かいます。しかし昨夜雪が降ったようでうっすらと周りの山が雪化粧をしています。道路は砂利の少ない悪路となり、車はタイヤが空回りするだけです。30分ほど頑張ったのですが結局 断念する事になりました。
白岩村に戻り金武さんを降ろして凱里に戻ります。帰り道、観光村の郎徳を過ぎ南花村という新しい観光村に寄ってみました。ここは道路から新しい橋を渡って長い坂道を上がっていくと村の広場に出ます。ここは近年、観光村として整備されたそうです。村の中の小道を上がっていきますと見慣れない建物がありました。キリスト教の教会です。貴州の田舎で教会に出会うとは驚きです。雲南の怒江のキリスト教の教会は写真集で見ましたがこの田舎まで布教されているのには感心します。
更に小道を上がっていき、普通の民家にお邪魔してみました。するとそこには若い男女の兄弟が在宅で居間には分厚い中国語のキリスト教の聖書が置いてありました。奥には妹さんがストーブの前でキリスト教の勉強をされていました。聞くところ、六盤水の方にキリスト教の学校があり、そちらへ行って勉強をするのだという事でした。なんだか苗族とキリスト教の組み合わせは特別なものを見たように思います。

今度は小道を広場の方へ戻り、1軒の家に入ってみましたら、オバアチャンが土間のイロリにあたっていました。そこで一緒に火にあたっていましたら餅がありましたので食べるように勧められましたので有り難くいただく事にしました。1つは広場で待ってもらっている周さんに・・・
30分ほどお餅をいただきながらゆっくりしてますとなんだか 日本の農村の家にいるような気持ちになります。帰りにはオバアチャンに広場の車まで来て貰って 持ってきていたお土産を渡して南花村を後にしました。

この日は前日の寝台列車もあって疲れていましたので早めに寝てしまいました。





3日目 台江、施洞へ






凱里賓館で3人で朝食後、施洞へ向かいます。今回は熊さんの実家にお世話になる予定で熊さんの春節の里帰りでもあります。凱里市市街の北にある青果市場によってポンカン、林檎、梨を箱で購入してお土産に持っていきます。
サンタナは三イ果樹の交差点を左に曲がり、台江の方に向かいます。暫く走ると去年の5月に寄った脚高村に再度寄ってみました。前回写真を送った小姐の村で再度行って見ましたら、その小姐が在宅でまだ寝ていましたが起こしてくれました。なんだかあか抜けしたカッコで出てきましたが聞くところ、凱里で小飯店をやっているとかで現代風のカッコなのでした。郵便で送った写真も届いていました。

その後台江の街を過ぎ砂利道を40Kmほど施洞に向かいます。砂利道でしたが状態は良く老屯の村に着きました。ここでは清水河で龍船祭りが行われるそうで道路の両側に10メートルぐらいもある細長い船が屋根だけの細長い小屋に入れてあります。
ここ老屯は熊さんがCITSに勤める前に勤めた小学校がありました。
老屯からすぐ施洞の街に入ります。ここは4月に姉妹飯のお祭りがある所で場所は施洞の市街から少し手前の場所だそうです。このお祭りの場所を過ぎると車は4階建てのコンクリート作りの家の前で停まりました。ここは熊さんのお母さんの弟の家で銀細工の職人をしていて、姉妹飯の時は外人も泊まるとか。ここで昼食です。

昼食まで準備がありますので外では爆竹の音がしてますので出てみますと小さな広場で龍の模型を作っているようでした。一人がノートに寄付をした人の整理をしています。一人2,3元ととても相場か安く私もついでに5元を渡して外国人と言っておきましたら、本当に書いていました。広場に面して建っている家をちょっと覗いていましたらお爺さんとお婆さん2人が昼ご飯を食べていました。写真を2枚ほど撮りましたら、中へ引っ張られてしまいました。するといつのまにか一緒にご飯をご馳走になっていました。凱里では大概鍋で、白菜と豚肉を鍋で煮て それを箸でつまんで唐辛子のタレに浸けて食べます。凱里の鍋はいつもこのパターンで具の種類と量は変わりますがいつも同じです。寒い貴州ではとても合うと思います。しかしここで沢山食べるわけにはいきませんので早々に引き上げました。ここでお礼を言うだけでは申し訳ありませんので日本の100円ショップで腕時計を10ケほど買って来てありましたのでそれを渡して引き上げました。(この腕時計中国製です。)

熊さんの叔父さんの家に戻り昼食です。ここも同じく鍋でした。
1時間ほどお邪魔して帰りには銀細工の様子を少しだけ見学させていただき熊さんの実家へ向かいました。
施洞の街を抜けますと道路は清水河を渡りますが橋が無くフェリーですがこのフェリーはエンジンが無く人力の鉄の平らな船で、大きなサオで自動車の乗った台船を向こう岸に渡します。乗用車の渡賃3元也

対岸に渡ってから田圃の中の砂利道を30分ほど清水河と平行に下流に向けて走り再度清水河に出会いました、ここから小船に乗って再度清水河を渡り対岸の平兆村へ行くことになります。施洞から直接船でこの平兆村にも船がありますがお土産などもありましたので車という事になったようです。

ここの小さな渡し船も村の子供達の副業?のようで小学生ぐらいの子供が3,4メートルほどの小船を操って対岸の村まで渡してくれました。
対岸に着くと熊さんが村の人にお土産の荷物運びの為に実家の弟さんを呼んでもらい、暫く岸辺て待っていました。すると天秤棒を担いだ弟さんがやってきてお土産を担いでいきました。この村は人口数百人ぐらいの村で、村には似つかわしくない、病院と小学校が建っています。この建物については後述します。

村の石段を上がって行き、村の苗族の民家の中を更に一番高い所まで上がるとそこが熊さんの実家です。2階建ての木造の家ですが、入口の方は以前、お父さんが村の西医として開業?していた頃の診察室があります。
家には熊さんのお父さん、お母さん、すぐしたの弟さんと奥さん、そのお子さんがいました。弟さんは先ほどの病院の先生だそうで、その下の弟さんは小学校の先生で小学校の寮に住んでいるそうです。

一休みしてから村の中を熊さんに案内してもらいましたが以前から熊さんに村の病院と小学校は香港の篤志家の寄付で建てられたがその橋渡しをしたのは熊さんであるという事を聞いていました。その病院と小学校は村の規模からは不釣り合いなほど大きく、小学校の校庭にはその記念碑が建てられていて香港の篤志家の名前や熊さんの名前が書かれていました。
小学校や病院は冬休み&春節でしたので残念ながら見学出来ませんでした。又 村の石段や水道も寄付だそうでその金額を見ると数万元程度ですので私たち一般日本人でも寄付出来る金額ではあるようです。
(学校や病院ははっきり覚えていないのですが数十万元程度だったように思います。) しかしこれだけの金額を外国から援助として持ってくる事が出来る熊さんはCITSの人間ではあるのでしょうが何かそれ以外に人間的な魅力や信頼感を持っているのでしょう。私自身も中国のガイドでとても嫌な思いを度々経験していますが、この熊さんと一緒に歩いているとそんな嫌な思いをしません。やはり最後は人徳なのでしょう。貴重な人材です。

村の中を歩いていると熊さんに声を掛けてくる人が沢山います。やはり熊さんは有名人のようで2,3軒の家に入り暫く話し込んでいました。
村の密集地だけ一回りすると夕方となり実家に戻り 夕飯です。ここでも鍋で居間の土間に炭火があり、そこへ鍋を掛けて青野菜と豚肉を入れて唐辛子で食べるといういつもの食事です。家族の皆さんと近所の人も集まって食べているのですが青野菜がすぐ無くなりますので弟さんの奥さんがいつも補充していました。私も肉類ばかりですと太りますので青野菜ばかり食べていました。苗族の家庭では女性が良く働きます。外では男性も女性も良く働きますが家では男性の天下のようで、日本と雰囲気は似ています。雲南の戛洒鎮の家庭では男性も女性と同じように働き民族性の違いをはっきりと感じます。

9時頃には近所の人も帰りましたので2階の私のベットへ行きましたら布団が貴州の布団らしく冷たくこれでは寝られないと思ったのですが毛布がありましたので足に巻いて、更にホッカイロを2つ開封して寝ました。これでなかなか快適でした。
(運転手の周さんは下の弟さんの小学校の寮で泊まるという事で行ってしまいました)






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